Portrait
企業の内面から滲み出る性格は、経営者の為人(ひととなり)と分かちがたく結びついています。喫茶さざなみでは、ご入会いただいた経営者のみなさまとの対話を通して、人生観や大切にする価値観、事業観などをお聞きし、そこから受け取ったことを文と絵を通してご紹介する試みを行っています。
文:佐藤康生 絵:Akira Murakami
株式会社ソルト(SOLT.)
青木隆行
アトラス―ギリシア神話に登場する神。ゼウスが率いるオリンポスの神々との戦いに敗れ、罰として天空を双肩で支えることを命じられた―

「都会でどこの馬ともわからん人間になるより、田舎のプレスリーにならんか。」
大学卒業後、都市銀行に就職。東京で支店勤めをしていた青木を、生まれ故郷(山口県防府市)へと連れ戻したのは、尊敬する父親の一言だった。祖父が興した材木屋を引き継ぎ、工務店経営を成功させていた父親が、自分を頼りにしてくれていることが嬉しかった。
元来勉強熱心で野心もあった青木は、社長になると次々と新しいことに取り組んだ。インテリアショップやカフェを備えた店舗のブランディング、介護、不動産賃貸、民泊、食品物販など事業の多角化、新卒採用による組織の新陳代謝…。打つ手はことごとく当たり、就任時に3億円弱だった売上は急伸。青木は地方工務店の注目株として全国的にも知られるようになった。
しかし売上の伸びと反比例するように、青木の心中は焦りと不安が占めるようになっていった。会社をもっと成長させたい。自分の能力はこんなもんじゃないはずだ。理想と現実のギャップに苛立ちを覚え、それは社員に向かった。ミスをした社員を必要以上に攻めた。𠮟責で始まった朝礼が午前中一杯続いたこともある。表向きは「お客様のため、社員のため」だったが、振り返れば言動の多くは自己顕示欲を満たすためだった。社員たちは失敗を怖がるようになり、会社から少しずつ生気が失われていった。
売上が10億円を超えたとき、大きな出来事が起こる。妻の実家が火災に見舞われ、大切な妻を亡くした。孤独が募った。忘れるために、それまで以上に経営にのめり込んだ。
20億円を超えたとき、将来を期待していた幹部社員が同じ地域の競合会社に転職し、元気が取り柄だった若手社員が鬱になった。
原因は明らかだった。青木はそれまで認めるまいとしてきたことに目を向けざるを得なくなった。俺は、青木隆行という経営者は、誰も幸せにしていない。社員も、家族も、そして自分自身さえも。自分たちの事業は、人が幸せになるためにあるもの。いまの自分にはその資格がない。ここまでだと思った。青木は以前より親交があり、理念が近いと感じていた経営者に事業を譲渡する決意をする。
譲渡後、青木は自身の会社を立ち上げ、現在は主に地域工務店の相談役として活動している。顧客は全国に二十社余り。相手の経営者はほとんどが年下だ。彼らは青木のことを口を揃えて「兄のような人」と言う。兄弟仲に恵まれなかった当の本人は、そう言われるたびに何だか不思議な気持ちになる。彼らには、自分がやったことの真逆の経営をしてくださいとアドバイスしている。
昔の社員や知り合いからは、顔が穏やかになったと言われる。自分でもそう思うし、これが本来の自分なんだろうとも感じている。いまの青木には、人間も人間が営む人生も、ひとつことですべてが解決するほど単純なものではないということもわかっている。
大理石に刻まれたアトラスの表情は、どれも苦痛に満ちている。背負った天球は永遠に下ろすことができない。けれども経営者が背負う重荷は、自分の意思で下ろすことができる。それは背負い続ける勇気と同等、あるいはそれ以上に勇気がいることなのだ。
株式会社ソルト(SOLT.)代表取締役。経営アドバイザー/MBA。1972年・山口県防府市生まれ。2002年~2019年まで、株式会社銘建(MEIKEN)代表取締役。さくら銀行(現三井住友銀行)を経て、家業であった工務店を事業承継。銘建では、『ライフスタイル型工務店』『一気通貫経営』を提唱。事業規模を2.7億円から20億円超へ拡大。2016年より多角化(機能回復型デイサービス・不動産賃貸・民泊・食品物販)展開。2019年M&Aにより事業譲渡。現在は工務店特化型の経営コンサルタントとして全国の工務店・中小企業への支援を行っている。

株式会社Green prop
川添克子
「もしもし、川添さんの携帯ですか。おたくの会社が燃えています」
2019年3月4日18時頃。警察からの電話だった。ウソでしょ!はやる気持ちを抑え、会社へ向かう。途中で遠くの空が真っ赤に染まっているのが見え、報告が紛れもない事実であることがわかった。本社に併設された中間処理施設から出た火は、瞬く間に燃え広がり、建屋も、顧客データも、何もかも飲み込んでいった。克子が社長になって、二度目の火災だった。一度目は建屋の一部焼失で済んだが(出火原因は不明)、以来防火意識を徹底し、十分すぎるほどの注意を払ってきた。それなのになんで?私がこの商売をしているのがそんなに気に入らないの。神さまがいたら、毒づいてやりたい気持ちだった。「社長!」「克子さん!」知らせを聞いて集まって社員たちに、やっとのことで声を絞り出した。「下を向いとってもしょうがないけん、みんなでできることしよう」
克子は父親が創業した会社のいわゆる二代目になるが、跡を継ぐ気持ちはさらさらなかった。高校時代からの夢は、美容の世界で働くこと。それを叶えた克子は、カウンセラーとして充実した毎日を過ごしていた。美容の世界は奥深く、眠る時間が惜しいほど夢中になった。業績も良く、当時の女性としては破格の給料も手にしていた。将来はこの道で起業したい。そろそろ資金でも貯めようか。そう思い始めていたころ、川添家に悲劇が起こる。二歳下の弟が、大学卒業を目前にバイクの事故で亡くなったのだ。23歳の春に訪れた跡継ぎという選択。抜こうにも抜けない白羽の矢だった。
最初に任されたのは、工場での不燃ゴミの仕分けだった。作業服に軍手。薔薇の香りに包まれていた毎日は一変した。仕事を忘れられる唯一の時間は、入社してから始めたウィンドサーフィン。毎日のように海へ出た。「どこかに逃げ場が欲しかったんやろうね」と、克子は当時を振り返る。それまでの世界と決別するように、自慢の美白肌はみるみるうちにキャラメル色へと変わっていった。
入社二年目、転機が訪れる。地元の行政から、山林に不法投棄された廃棄物を現場で再生処理できないかと相談が来た。父親は断ったが、工場にあるベルトコンベアを持ち込めばできるんじゃないかと思った。提案すると、「だったら、おまえがやれ」と監督を任された。筑豊の荒くれ者たちを雇って始めたものの、一週間もたたないうちに腕をコンベアに挟まれた。複雑骨折で手術が必要だと医者から言われた。「おまえ、まさか休むとか言わんめーな?!」「休むわけなかろーもん!」父親への意地があった。折れた腕を三角巾で釣って最後までやり終えた。
当時、不法投棄現場での再生処理は珍しく、興味を持った行政や同業他社が頻繁に見学にやってきた。彼らの質問に答えながら、克子ははじめて自分の仕事を面白いと感じた。なによりも目の前にあった廃棄物の山を元通りの自然に還せたことが誇らしかった。
やる気に火が付いた。業界のことを学び、先進的な取り組みをしている会社を訪ねて全国を飛び回った。廃棄物を取り巻く課題も見えてきた。とはいえ、目の前の経営は火の車だった。とにかく仕事を取らないことには、社員も会社も守れない。手持ちの札は、父親が建てた倉庫とポンコツの処理機械だけ。そんな状態のなかで、克子は営業に打って出る。
克子の営業は、最初から型破りだった。まず取引ができそうな行政や企業に電話をする。「廃棄物のことで何かお困りのことはありませんか。当社がなんでもお引き受けいたします」アポが取れると、なけなしの資金で購入したジャガーの中古車に乗り、スーツ姿で颯爽と現れ、体裁だけは立派な企画書を見せる。すべて“できそうな会社風”に見せる作戦だった。とにかく仕事を引き受け、解決策は後から考える。作法も何もあったものではなかったが、そこからいまのビジネスモデルが生まれた。
Green propは多品種少量の廃棄物を得意とするが、この業界には種類別に専門の処理業者があり、別々に手配しなければならない。加えて運送会社の手配、各社の信用調査や膨大な書類の管理も必要になる。担当者の代わりにすべての窓口となり、面倒事を一手に引き受けることができれば、廃棄物の処理と管理は格段に効率的になる。業界にはこうした発想はなく、仕組みを知った取引先が一社また一社と増え、全国へと広がっていった。
2013年、克子は社長に就任。社員数も増え、株式会社としての体裁も徐々に整えていった。19年には初めて中長期経営計画を発表し、翌年には人事評価制度も策定。リーダー職を集めて決起集会を開いた。まさにその日の夜、冒頭の火災は起きたのだった。建物と設備は全焼し、Green propは本社機能を失った。
火災から数日後、事情聴取と近隣へのお詫びを終えた克子は、仮本社として設けた事務所に顔を出した。そこで目にしたのは、取引先に迷惑をかけまいと自発的に動く社員たちの姿だった。その姿は、克子が経営者としてこうあってほしいと願いながら、叶わずにいたものだった。
危機のもとで一致団結したGreen propは、火災からわずか6か月で完全復活を果たす。新たな門出となった日、福岡市内に設けた本社ビルは、玄関から階段まで取引先から贈られた生花で飾られ、足の踏み場もないほどだった。自分たちのやってきたことは間違いじゃなかった。つづけてきて良かった。ありがとうございます。ありがとうございます。本当にありがとうございます。こぼれる涙を抑えながら、克子は頭を下げつづけた。
浮いては沈み、沈んではまた浮かぶ。人生も、会社も、波に漂う小舟のようなものかもしれない。たとえどんな状況にあっても、弱音を吐かず、希望を見出し、できれば笑っていたい。未来は、その先に自ずとひらけるもの。
川添克子は、そう信じ、今日もどこかで笑顔の花を咲かせている。
1994年『株式会社筑紫環境保全センター』(現『株式会社Green prop』本社:福岡市)に入社。2002年より副社長として実質的な経営を担い、2013年代表取締役、2023年より現職。美容業界という前職の経験を生かし、廃棄物処理のコンサルティングサービスやCSR・ブランドづくりを展開。2012年に3R推進全国大会にて「環境大臣表彰」受賞。業界に先駆けた脱炭素への取り組み、廃棄物管理のオンライン化を実現するなど、グループで急成長を遂げている。2024年には、「For Sustainable Tomorrow.-持続可能な未来のために―」というビジョンを広げるため、東京港区に〈GREEN PROP SUSTAINA BUILDING〉を開設。

株式会社BFI
稲垣力三
一本の映画がある。古き良きアメリカの映画だ。“It’s a Wonderful Life.” 邦題を『素晴らしき哉、人生!』という。
ジェームズ・スチュワート演じる主人公ジョージは、ニューヨーク州の田舎町で、貧しい人たちを相手に小さな住宅金融会社を営む両親のもとに生まれる。父親は長男であるジョージに会社を継いでほしいと願っているが、本人は町を出て、世界中を飛び回り、建築家になることを夢見ている。ところが高校の卒業パーティの夜、父親が倒れ、予定していた大学進学を諦める。会社を継いだあとも、何度か町を出ようとするが、そのたびに災難や事件が降りかかり、後始末に翻弄されながら、歳を重ねていく。そんな物語である。
稲垣力三の思うにまかせぬ物語のはじまりは、昭和五十三(1978)年のこと。家族が15歳の力三ひとりを東京に残して、父親の実家である愛知に帰ってしまう。父親の自由人(いかれ)っぷりには、薄々気がついてはいた。「そもそもですよ。五人兄弟の長男である自分が、なんで“力三”なんですかね」しかし、まさか中学を卒業したばかりの自分を放置するとは思っていなかった。
高校生の一人暮らし。家はよからぬ輩たちのたまり場となり、そのとばっちりを食らって退学処分となった。中卒という希少価値の高い経歴を手に入れた力三は、学歴不問の運送会社に就職。倉庫係を経てトラック運転手になる。手っ取り早く稼げるからという理由で選んだ仕事だったが、筋が良かったのだろう。取引先から見込まれて、26歳で独立。自分の会社をもった。さあこれからというとき、こういうことにはやたら鼻が利く父親から「こいつらを食わせろ」と二人の弟を押しつけられる。おまけにこの父親。なんのツテやら、まったく畑違いの仕事を口約束で取ってきていた。「マンションのフローリングの床貼りやで~」ドヤ顔で自慢されたが、建築にはこれっぽっちも興味関心がなかった力三にとっては、ありがた迷惑な話でしかなかった。
ジョージには、少なくとも自分のやりたいことがあったが、力三はやりたいことをみつける前に、ままならぬ流れのなかに放り込まれてしまったのである。
それでも、懸命に働き、生きた。学のない分、実のある知恵を蓄え、なにがあっても義理・人情・恩返しだけは忘れまいとした。こつこつと取引先を増やし、大手ゼネコンに口座を開けるまでになった。会社の将来を考えて、飲食店のフランチャイズ経営にも乗り出した。従業員はアルバイトを入れて約130名に、売上高も10億を超えた。けれども、心の底からやりたくてやったことはひとつもなかった。有り余るほどの苦労と引き換えに得られるのは、つかの間の安堵とわずかな喜び。境遇を嘆いたり、恨むことはなかったが、やさぐれなかったかといえば嘘になる。
リーマンショックでは大きな負債を負ったが、足掻ける気力と自信はまだあった。ぽっきり折れたのは、東日本大震災だった。逆転を賭けて進めていた案件は、ご破算になった。「よくがんばった。もうここまでにしておきなさい」天からそう言われたような気がした。力三は事業を清算し、従業員の身の置き所を決め、一人でやっていこうと決意する。
食っていけるあてがあったわけではない。先の見えぬ力三を助けてくれたのは、ままならぬと思っていた人生で得たものだった。零細企業だった時代、銀行からなんとか融資を引き出そうと身につけた術(すべ)をほしいと言ってくれる経営者がいた。稲垣の人柄を慕って自分と社員との橋渡しを頼むという経営者、たまに飲んで話をするだけでいいからと顧問料を払ってくれる経営者もいた。事業を清算して12年、還暦を過ぎたいまも、稲垣のもとには相談事が絶えない。一度は破綻した私生活も、女神と信じるひとがあらわれ、結婚することができた。人生をさんざんに振り回してくれた父親は、感謝とともに天へ送った。
映画『素晴らしき哉、人生!』のラスト。両親のあとを継いで貧しい人たちのために生きたジョージを悲劇が襲う。長年右腕としてやってきた叔父が、監査のために銀行に預けなければならない大金を無くし、よりによって金儲けのことしか考えていない同業者の手に渡ってしまう。その日のうちになんとかしなければ会社は破綻。ジョージは絶望し、やけ酒をあおり、保険金を得るために川へ飛び込もうとする。そこに、天からジョージを救うために遣わされた天使が現れる。天使は自殺を止めるが、ジョージは「やっぱり町を出ていくべきだった。自分がいなかった方がみんな幸せになっただろう」と嘆く。そんなジョージに、天使は「ではお望みの通りにしよう」と、彼がいなかった町の姿を見せる。悪徳同業者に支配された町にはけばけばしいネオンが光り、人々はみな荒んだ心で暮らし、妻のメアリーは独身のまま図書館で働いていた。ままならぬと思っていた人生が、じつはたくさんの人を幸せにしていたのだ。
名優が演じたジョージの姿に、一人の経営者の姿を重ねて、この物語の幕をひとまず下ろすことにしよう。
お金で苦労したから、
お金のことがわかる。
引く手あまたの顧問業
義理・人情・恩返しがモットー。
長男だったこともあり、弟の面倒を見るために26歳で起業。地元の信金に融資を依頼するも学歴も経験もないため塩対応。どうしたら銀行がお金を貸したくなるかを徹底的に研究。お陰で資金調達・財務が自然と強くなった。
2008年リーマンショックで大手ゼネコン破産に伴い大きな負債を抱える。2011年の震災をきっかけに「生きているだけでも有り難い」と思い事業清算へと舵を切る。
その後は財務・資金調達の経験をいかして、監査役・社長室長・顧問などを歴任し、現在に至る。好きな言葉は「Belive in yourself ~自分を信じて諦めない~」。
略歴
1963年 東京青山生まれ
1978年 高校入学時に家族が愛知県に移住したため一人暮らしを始める
1980年 高校中退
1982年 生計を立てるためトラック運転手になる
1989年 会社設立
2014年 財務・資金調達の経験をいかして複数の企業で顧問・監査役・社長室長を歴任
現在に至る

ブラッシュアップ・ジャパン株式会社
秋庭洋
ときは、おおよそ40年前。ところは、東大阪市中。小豆色のジャージを着た若者がチャリンコに乗ってやってくる。高校を卒業したものの、進学もせず就職もせず。やることといえば、毎日の犬の散歩と、繁華街をぶらぶらして時間をつぶすこと。よく見ると、左前歯が一本欠けている。煙草を挟むのにちょうどよさそうだ。
秋庭洋、18歳。この若者がリクルートに入社し、やがて会社を設立することになるのであるが、もちろん本人まだ知る由もない。
自他ともに認めるポンコツだった秋庭であるが、子どもの時分から何やら熱い想いだけはあったようだ。「怒らすとハサミを持って追っかけてくるような奴だった」とは、4歳年上の兄の証言。秋庭家のファミリーヒストリーに、エピソードのひとつとして紹介されている。
秋庭のような若者は、昔も今も日本全国にいるのだろう。が、辿る人生は様々だ。内に秘めたマグマをどこに向けるかによって、極道者にも経営者にもなれるのが、人間の面白さであり、また恐ろしさでもある。秋庭は、幸運にも出逢いに恵まれ後者の道を辿ることができたが、誰しもに幸があるわけではないし、運に恵まれるわけでもない。
秋庭が32歳で立ち上げたブラッシュアップ・ジャパンは、いわば元ポンコツによる現ポンコツのための就職支援会社である。第二新卒といえば聞こえはいいが、当時は「就職できない」「長続きしない」人間と烙印を押されたも同然であった。しかし、そんな若者たちのほとんどは働きたくないわけでも、辛抱がないわけでもない。既存のやり方に疑問を感じ、かといって自分をどこにぶつけていいのかわからず、居場所を見つけられないでいるだけなのだ。それさえ見つけられたら、力を発揮できる。世の中の役にだって立てるんだ。秋庭は、自分自身の体験からそのことをわかっていた。
創業から22年、同社が運営する『いい就職ドットコム』の登録者はこれまでに20万人を超え、1万人以上の若者たちの就職・転職を支援している。彼らと向き合う社員も同じような若者たちだ。ちゃらんぽらんで、ぶきっちょだけど、お客さんにはまっすぐ一生懸命。そんなやつらと一緒に、大手企業が思いもつかない桶狭間のような戦いを仕掛けるのがたまらなく愉快で、はまったときは痛快である。
ポンコツとは、常識やルールに逆らってボコボコにされながら、それでも立ち上がってファイティングポーズをとれる者たちのことだ。秋庭のポンコツ探しは、いまでは国内に留まらず遠くカンボジアの地にまで及んでいる。数年後には、アフリカのジンバブエあたりで極上のポンコツに出会っているかもしれない。
世の中には、あらかじめ宝石になることを約束された者たちがいる。それは、それでよい。でもな、と秋庭は思うのだ。ポンコツが放つ輝きには、宝石にはない美しさがあるんだよ。
1967年、大阪生まれ。株式会社リクルート勤務、人事コンサルティング企業の役員を経て、2001年にブラッシュアップ・ジャパン株式会社を設立。「第二新卒者」「既卒者」に特化した人材紹介サービスを展開し、これまでに1万名を超える若年求職者の正社員就職をサポートしてきた。企業経営のかたわら、関西学院大学、武蔵野大学にてキャリア開発科目の講師を務めるなど、若年層における雇用のミスマッチ解消にも尽力中。近年はカンボジアで、日本語を学ぶ大学生への奨学金支援事業を手がけるなど、アジアにも活躍の場を拡げている。

手放す経営ラボラトリー
坂東放レ
2017年、坂東は心が引き裂かれそうな思いで、経営者としての日々を送っていました。自分なりの理想をめざして設立した会社。社員を採用し、教育を行い、経営理念や行動指針をつくり、オシャレなオフィスも構えた。売上も毎年増えていました。しかし、なぜか社員の目には活気がなくなっていき、空気もどんどん重くなっていく。社員のちょっとしたミスに苛立ち、心ない言葉をぶつけてしまう自分がいました。
このままでは自分が壊れてしまう。どうしようもなくなった坂東が辿り着いたのが、すべてを「手放す」ことでした。規則やルールを撤廃し、握っていた権限を手放し、使った経費を開示するという秘密のカギまで手放しました。
これでもう大丈夫だろうと思った坂東でしたが、社内の反応は思惑とは真反対でした。社員は当惑し、次々と退職していったのです。坂東の心の傷は、より一層深くなりました。もうわけわかんない!いい組織って一体なんだよ!誰か教えてくれよ!心からの叫びから誕生したのが、いま坂東が所長を務める『手放す経営ラボラトリー』です。
『手放す経営ラボラトリー』を立ち上げ、次世代型、進化型と言われる会社の経営者と会っていくなかで、気が付いたことがありました。組織づくりには正解もゴールもないということ。そして世間的にすごいと言われている経営者でも、みんな悩みを抱えているということです。「彼らと接するうちに、それまで隠していた(隠さなければならないと思っていた)自分の弱さや未熟さを認め、向き合うことができるようになった」
不思議なことに、そう思えるようになったとたん、あれほど求めた優秀な人やすごい能力を持った人たちが、仲間として坂東の周りに自然と集まってきました。立ち上げ当初、坂東のやっていることはわけがわからんと言われた『手放す経営ラボラトリー』も、そんな仲間たちの自律的な活動によって、ビジネスとして軌道に乗ろうとしています。
小説家 村上春樹は、デビュー作『風の歌を聴け』の冒頭で、主人公の僕にある作家が語ったこととして、こんな言葉を紹介しています。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
経営たるもの完璧でなければならないと思い、それゆえに悩み苦しんでいる経営者がいたら、ぜひ坂東と話してみてください。少しだけ肩の荷が下りると思います。
神奈川県出身。早稲田大学卒。
スタートアップから大企業まで、あらゆる組織課題の解決に携わってきた。その数800社以上。お会いした経営者は4000人を超える。
経営者の右腕たるCHRO(Chief Human Resource Officer:最高人事責任者)として、最新の組織・人事戦略をデザインしている。
2018年に手放す経営ラボラトリーを設立。
「管理しない経営」「誰もが意思決定できる組織」「給与は話し合って決める」「理念も事業計画もない」など最先端の組織や経営スタイルを研究。
ティール組織、ホラクラシー、自律分散型組織など進化型組織のリサーチ数では(おそらく)日本一。
経営を進化させるプログラム「DXO(ディクソー)」を開発。全国の企業への導入支援を行っている。
また自社でも“手放す経営“を実践。勤怠管理やマネジメントを手放し、経営権も分散化するなど、身体を張った実証実験を行っている。その過程で起きるさまざまな出来事も実況中継している。
現在は福岡と横浜の二拠点生活。
趣味は畑仕事、茶道、葛藤。
手放す経営ラボラトリー 所長
株式会社ブレスカンパニー 代表取締役
ディープブレスカンパニー株式会社 代表取締役

たかまり株式会社
高松秀樹
東京・日本橋の人形町界隈は、そのむかし、芳町(よしちょう)と呼ばれる花街でした。小福さんは、中学卒業後、すぐにこの道に。やがて東京の花街を代表する芸妓さんとなり、50歳を過ぎて自分の料理屋を持ちました。この料理屋、小さな構えながら大物政治家や官僚トップ、大手企業の経営者など国を動かすような人たちが、こぞって訪れるようなお店でした。万事控えめで、失礼ながらさほど美人でもない小福さんが、どうしてこのように好かれるのか。聴いたことがあります。「うふふ、それはね。端っこにいる人を大切にすることよ」
高松の“人たらし”ぶりを見るとき、いつも小福さんのこの言葉を思い出します。高松は人材・組織開発、企業研修コーディネートを仕事にしていますが、クライアントは名だたる大手企業ばかり。高松の会社は実質本人ひとりの零細企業、高松自身も決してエリート街道を歩いてきたわけではありません。本人は帝大出身と言っていますが、旧帝大ではなくラグビーで有名な方です。そんな高松に対して、大手企業のエリート人事担当者たちが心を許し、全幅の信頼を置いているのです。
仕事先だけではありません。中小企業の経営者、地元の友人たち、果てはキャバクラのおねーちゃんまで。1年365日、お座敷の声がかからない日がないほど多忙な夜を送っています。それはなぜかと考えるに、やっぱり端っこを大切にしているから。研修でいえば、経営者ばかりでなく現場の社員一人ひとり、さらにはその人たちの人生の端っこを丁寧に見て、話しを聴いているからなのだろうと思うのです。
あはは、と、高松はよく笑います。相手が誰であれ、場を和ませてくれます。笑う門には福来る、とはよく言ったもので、そんな高松のまわりの空気はいつも朗らで、なんだか上手くいくんじゃなかろうかという空気に包まれます。サッカースペイン代表をW杯優勝に導いたビセンテ・デル・ボスケ監督が言い残したように、幸運はいつだって寄り添う相手を探しているのです。
その道化役、わたくし高松が喜んでお引き受けしましょう。ささ、みなさん、踊りましょう、歌いましょう。なんだかんだで、今日も夜は更けていきます。家では、フレンチブルの愛犬ジダンが短い首を長くして主の帰りを待っています。
・1973年~ 神奈川県川崎市育ち
・1997年~ 帝大卒業後、採用コンサルティング会社に入社。経営者への企画提案、新拠点立上げ、社長室設立等に従事し、独立。
・2002年~ スポーツバー・スイーツカフェ開業、採用支援事業開始。
・2007年~ 大手・上場企業を中心に「企業研修、人材・組織開発」に携わり「100社以上、2000以上」のプロジェクトを運営。
・2014年~ ブランディング会社を立ち上げ、中小企業を中心に「経営者・商品・サービス」をマーケットと繋げる事業を展開。
・2021年~ 経営者や会社員に「もう一つの生業」を創出するための、小さなビジネス開業“準備“スクール「BFS」運営中。
・2022年~ 喫茶さざなみOPEN ♪
・たかまり株式会社 代表取締役
・株式会社サザナミーティング 代表取締役
・株式会社ブランドファーマーズ・インク 取締役副社長

ご興味ある経営者の方へ
経営者の肖像は、喫茶さざなみにご入会された方に向けて、書きおろしと描きおろしを行っていますが、肖像のみの制作を希望される方のご依頼もお引き受けしています。問い合わせは、こちらからどうぞ。